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新宿の顧問弁護士なら弁護士法人岡本(岡本政明法律事務所)

当事務所では、上場企業(東証プライム)からベンチャー企業まで広範囲、かつ、様々な業種の顧問業務をメインとしつつ、様々な事件に対応しております。

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コラム - 最新エントリー

 

一 請求権実現の方法は強制執行
 
1 請求権には種々のものがあります。今回はお金を請求する事件、金銭債権に限定してどのような方法で回収するのかについて考えてみましょう。実際には任意に払ってもらうために話し合いをするのでしょうね。そもそも任意に支払ってもらえないことが予想される場合には、契約時に、強制執行認諾文言付きの公正証書を作ったり、何か価値のある物を担保に取ることもします。しかし事前にどのような方法を講じようとも、相手が任意に支払ってくれない限り、強制執行をするしか方法がありません。強制執行とは、国家機関の関与によって、相手方、つまり債務者の意思に反して、債務者に義務を履行させることをいいます。
故に、強制執行できる「お墨付き」をどのように取得するかが事件解決のコツになります。「お墨付き」のことを債務名義と言いますが、確定判決、仮執行宣言付判決と挙げればきりがありません。先に述べました公正証書もそうです。でも強制執行認諾文言付きの公正証書と言いましても建物明渡請求事件のような特定物の給付を目的とする場合には債務名義になりません。注意が必要です。
 
2 確定判決をとるには相当な時間がかかります。その間に相手が無一文にならないとも限りません。従って債務名義をとる前に、仮に執行するという保全処分も検討しないといけないのです。
不動産については、時間のかかる裁判をしている間に、相手方が意図的に譲渡したり、新たに担保をつけたりする場合、巨額の損失が発生します。このように相手方の対応をにらんで、仮差押えである保全処分を検討することになります。
では銀行預金に対する保全処分はどうでしょうか。
銀行預金が確実にあると分かっていればいいのですが、預金の所在もその額も分からないのが普通です。ここで注意が必要です。銀行預金に仮差押えをする場合、債務名義がないのですから相当な担保をたてる必要があります。銀行が「預金はありません」という回答をした場合でも、相手方の損害が考えられ、担保の簡易な取戻手続ができないのです。担保は仮差押えされた債務者の損害を補填するためのものですから、相手方の同意か、担保取消決定をもらうという面倒な手続が残ります。従って預金は確定判決を得て執行するのが通常です。
 
  強制執行のエピソード
 
  多くの事件は、相手方がどの銀行に預けているのか、或いはどの銀行に多額の預金があるのか分からないことが普通です。でも当事務所は諦めません。銀行預金の所在調査がポイントになります。こじれる案件は、相手方も差押えを予想して取引銀行を隠しております。そこで先ず、過去当方に振込みをしてきた銀行の支店、次に会社ですとネットに載っているかどうかの調査、支店等についても調査をします。帝国ホテルの内装業者との紛争事件のとき、会社支店先である立川支店でヒットしたことがあります。ちょうど給料日前に差押えしました。巨大法律事務所の弁護士が大金の回収の噂を誰から聞いたのか、銀行名を教えてほしいと厚かましく電話をしてきたこともあります。
個人の場合には、自宅から駅に出るまでの銀行数か所を差押えしてヒットしたこともあります。昔は、給料が第一勧業銀行に振り込まれることが多かったため、相手の勤め人になった当時の勤務先に近い第一勧銀支店を差押えの対象としたこともあります。数か所の差押えで、僅かな金額のヒットはよくあることですが、その粘りに負けて和解を申し出られたこともあります。
若い弁護士の先生方には勉強になる話だと思いますが・・。
 
2 顧問会社の裁判で面倒な方と争った時、相手方の社長が超高級車で裁判所裏口に出てきました。偶然、鉢合わせをしたのですが、顧問会社社員は無謀にも走る高級車の前面に立ちはだかり「この車を押さえてください」と絶叫しました。
ここまでされたら押さえない訳にはいきません。このエピソードは10年以上前のことですが、その場で判明した車の番号から直ちに陸運局に行って調査をし、社長の車か会社の車か割り出し仮差押えの準備を始めました。この案件は、この社員の無謀な行動に驚いたのか、すぐに相手方が分割支払のお願いに来て和解になりました。ところで副所長から、近時、陸運局では個人情報保護法の関係で調査に応じてくれない、弁護士照会で調査をするのだと聞いて驚いております。
 
三 江戸時代の裁判
 
1 前のコラムで紹介した経済小説家高任和夫さんは、最近「江戸時代もの」を書いておられるということをネットで知りました。早速「星雲の梯(老中と狂歌師)」(講談社)と「貨幣の鬼(勘定奉行萩原重秀)」(講談社文庫)を買ってきました。今、私は経済小説ではなく江戸時代の裁判官であった川路聖謨(「かわじとしあきら」と読みます)の膨大な本を読んでおりますので、余計高任さんに親近感を抱いたのかもしれません。
和解を「内済」というなど勉強しておりますが、当初は執行をどのようにしていたのかについて関心があり、あれこれ読んでおります。
 
2 江戸時代に関係する本を読む楽しみを考え、「大江戸今昔マップ」まで買いました。江戸時代の街並み(江戸切絵図)と現代マップが重ね地図になっていて、現在楽しんでおります。
余計なことも書きたくなりますが、強制執行のコラムはまだ続きます。次回のテーマは「財産開示手続」にします。

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一 週刊エコノミストの特集
 
  1    平成26年12月16日号「週刊エコノミスト」に私の文章が掲載されました(40、41頁)。
   週刊エコノミストでは、表紙において、特集の内容を「実家の後始末」と大きく題しております。
そもそも「空き家問題」は、現在、週刊誌等で特集ブームになっており、この号も爆発的に売れたようです。当事務所では、同号の大量買い注文を出しましたが、市中にはないとのことで手に入りませんでした。
 
 2    確かに、いずれの雑誌の特集記事においても「不動産を放棄できるか」については触れないままです。空き家対策を如何に論じようとも、最終的に誰しもが思いつく「余計な不動産は捨ててしまえ」という素朴且つ最終解決の疑問に対して答えていません。空き家のゴミ(家具等の動産類)を、どう「放棄」するかついて詳細に論じているため、余計に中途半端で、読んでいて歯切れが悪いのです
週刊エコノミストは、表紙に「放棄できない実家の所有権」と副題をつけ、根本的な法的問題まで論じているのですから、爆発的に売れる訳です。私を取材して原稿依頼された記者の目の付け所の良さを評価します。
 
 3    私の原稿(40頁)には、副題が付けられ掲載されました。「法制度 不動産の所有権は放棄できない。法の陥穽を埋める対策が急務」と題され、小さく「不動産の所有権放棄を認めないことの弊害が出ている」と記載されております。しかし、この原稿では「不動産の放棄」に関する自分の思考過程については書いておりません。
私の考えでは「弊害」とまでは言えないのです。
本コラムにおいて「弊害」になるのかどうかについて、皆様と一緒に考えたいと思い ます。
 
二 週刊エコノミストの原稿依頼
 
1   週刊エコノミストからの原稿依頼は、事前に電話にて大枠の説明があり、その後、記者にお会いして説明を聞きました。内容は、私がホームページに載せているコラム「不動産は放棄できない」という連載物の話を前提にされ、「不動産の放棄ができないことにより困った事例を書いていただけませんか」との依頼でした。当時「実家の後始末」特集とまでは具体的に教えられていませんでした。
単なる困った事例報告でよいと念押しされ、たった2500字程度の原稿依頼ですから、私も、私の主観的な意見は書けないという前提で書きました。
 
2   その後、私の原稿に加筆・訂正のお願いがありました(当時、題及びその副題はまだありませんでした)。その際、記者から、書きたかった私のコラムに関係した部分については要らないのではと言われました。この原稿依頼があるまで、ネットで「不動産の放棄」と検索すると、私のコラムが第一順位になっていることなど知りませんでした。しかも不動産放棄のコラムは、随分前に書いたものなのに、ネットでは、いまだに正確な情報が書かれていないことなどについても、皆様にお知らせしたかったのですが・・。
でも不動産の放棄ができない事実と事例内容に限った掲載ですから、コラムに触れる部分は削られても仕方がないと諦めました。
 
  3   お会いした記者は優秀な方でしたから、私の思考を推論されたうえで、不動産の放棄ができないことは「弊害」であると編集会議で説明されたのだと勝手に推測します。このような考え方も当然に成立するでしょうから。
          記事本文が、私のお願いの内容に訂正されたことについては、大変感謝申し上げております。しかし「不動産放棄」ができないという事実が、「空き家」問題の「弊害」になっているということについては、私の考え方からは馴染みません。
 
三 本論−「不動産放棄」ができないことは法の欠陥か?
 
 1     不動産の放棄を認めますと、所有者のない不動産が生じます。民法第239条2項には「所有者のない不動産は国庫に帰属する」と規定されていますので国が所有者となり、国が不動産を管理することになります。不動産の放棄が自由にできるなら「自由に放棄して国に皺寄せをしたらいい」という結論になるのです。この立場では、不良資産を国が管理することになり、重大な問題に発展します。管理費用も国が負担し、それを一般国民に転嫁することになります。さらに重大問題は不測の責任です。これには刑事責任もありますが、これらの責任を全て国に転嫁する結論となります。
       不動産放棄を認めた場合、放棄する者の所有者責任はどうなるのでしょうか?「自己責任のネグレクト」で許されるのでしょうか。こちらの方が逆に「弊害」です。私はこんな勝手な社会は嫌いです。
 
2   現在の空き家問題は、今後の地方自治体の姿勢を見ることも大切だと考えております。条例に関しては、従前の私のコラムでも十分に展開済みですが、その猛烈な対応ぶりには驚いております。
私の結論は「放棄できないという事実だけを知らせればよい。そして、その認識に基づいて、早期から対策を立てるべきである」というものです。そもそも空き家問題は、上記事実を知らないことから自己管理責任が果たされず、放置されたままになっているというのが実態ではないでしょうか。
しかしながら、私は、破産者や生活保護受給者が不動産を放棄できるようにするという法律の改正は必要だと考えております。
  どちらの立場をとられても立論はできます。どうか不動産放棄のコラム6回分及び週刊エコノミストの私の記事をお読みください。
 
四  民法学研究者の方へ!
 
週刊エコノミストでは、新版注釈民法を引用して民法学の大家と言われる学者の見解を紹介し、法の姿勢を論述しました。
そこで示した参考文献、著者匿名「土地を放棄したい人」ジュリスト5[昭和27年]の著者について、鈴木禄弥教授は、匿名の著者とは我妻教授だというのです。「フランス法における不動産委棄の制度」民商法雑誌27巻6[昭和27年]以下参照)」にそのような記述が出てくるのです。偉い学者はさすがに凄い。当時の民法学における論争の世界を覗き見したいとまで思いました。小説になりますものね。
以上は「不動産の放棄」について研究される方には、必読文献になりますが、この話を、我が事務所の秀才弁護士である田中先生に話したところ、目を輝かせてくれました。

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一 高任和夫さんの経済小説
 
1 前回紹介した高任さんは、三井物産退職後、作家としてデビューした際の処女作として「商社審査部25時」を出されたそうです。当初は、?商事法務出版のNBLという法律雑誌に連載物として書かれたとのことです。法律専門家を相手にする本なのですから、こんな難しい案件が複数、てんこ盛り状態になっているのも当然なのでしょう。私が本書に関心をもったのも、こんな状態で受任し続けたら、誰でもパンクするぞと思い、実体験に基づく迫力もあって強く印象に残ったのでしょうね。
 
2 本書の前半部分は、商社マンである課長が、モーターを販売した取引先の破綻を聞きつけ、売掛金の回収のために奮闘する様子を展開しております。
     特筆すべきは、破綻先にあるモーターの動産売買先取特権を法律論として展開せず、更に破綻先から転売された先にあるモーターに対する動産売買先取特権を論じるところに味噌があるのです。この場合、破綻先が有する先取特権を物上代位して行使するという難しい法律構成が必要になってきます。
実務においては、転売先に当該モーターが存在すること、そして破綻先の有する先取特権の存在を証明しなければ法律構成ができません。誰が想像しても、金を払わない転売先が協力しないだろうと分かります。当然、破綻先も協力をしないでしょうから、裁判所の納得の得られる証拠集めができないということになります。
 
3 本書の後半は、破綻先が破産ではなく会社更生法を利用する方針とされたことにより、会社更生の仕組みと資金回収の兼ね合いに揺れる駆け引き、そして別途船舶に関する紛争をテーマとし、その双方の糸が繋がっていくという多少強引な話に展開していきます。
感心したところは、会社更生法の再生計画案の作成に関して、主人公は、抵抗する裁判官に対し、第191条を示して新会社の設立による清算型事業譲渡を主張し徹底的にねじ伏せるのです。本書出版後、第191条は改正され、小説の内容が第185条となりました。裁判官に対する小説の指摘事項が、その儘、不明点を明らかにするという条文変更となって実現したのです。出版されて10年後に読んだ私は「法律オタク」そのものなのですから、震えない訳がありません。
 
  動産売買先取特権の物上代位
 
  私が経験した「動産売買先取特権物上代位」の事例は、「商社審査部25時」と同じような状況下でなされました。前項で説明しましたとおり、証拠集めに壁のある事例ですから、同様の場面でしか利用できないのかもしれません。このような趣旨でも、上記小説は半端な経済小説でないことが分かります。
以前、当欄において「昔の破産事件は乱暴だった」という題をつけて「整理屋」介入事件のコラムを書きました。今回紹介する事案も、当時の整理屋に怒った上場企業の破産申立によって破産管財人の私が直面することになった事案です。前回は鞄屋さんでしたが、今回はワイシャツ屋さんであります。
 
2 有名な繊維メーカーは、長年月、ワイシャツ屋さんに生地を卸し取引してきました。ところがワイシャツ屋さんが不景気のため高金利の街金からお金を借りました。街金は整理屋としてワイシャツ屋さんに乗り込み、製品であるワイシャツの叩き売り、生地の横流しを始めたのです。繊維メーカーとしては売掛金の回収ができないだけでなく、せっかく育て上げたワイシャツ屋さんが食いつぶされていく状況を目の当たりにすることになりました。
結論として、繊維メーカーは、弁護士に相談をして債権者破産の申立てをしました。さらに私が破産管財人に任命されるとすぐ、生地の転売先であるワイシャツ屋さんの協力企業に対する売掛金についても、動産売買先取特権の物上代位権を行使し、当該生地に対しては先取特権があると言ってきたのです。
 
3 私は怒りました。裁判所に援助を頼んだにもかかわらず、破産管財人の上前をはねることに頭にきたのです。そもそも全てを破産管財人に任せると決めたのならその全てを私に任せるべきではないでしょうか。繊維メーカーは、違法は許さないという姿勢に徹するべきです。
私は、繊維メーカーが担保に取っていた不動産の別除権について破産債権から担保物未回収金つまり予定不足額が証明されていないとして、債権者集会における議決権行使を認めない旨、宣告しました。
   結局、繊維メーカーは自ら申立てた破産事件で債権者集会の責任もあり、協力企業に対する売掛金は私が回収することになりました。
 
三 当事件の後始末
 
1 当時の債権者集会はよく荒れました。
この債権者集会も荒れ、裁判所の警備員の出動を得ました。債権者集会当日、大量の資料を運ぶ必要もあり、事務局が付き添ってくれましたが、反対側の法廷で開廷されていた当時の有名事件「オウム真理教殺人事件」の法廷に警備がつかないのに、何故こちらにつくのかと不思議そうに感想を述べられたことが印象的でした。
 
2 在庫として残っていたワイシャツの販売も大変でした。売りに出してもばかばかしいほど安い値段しかつかなかったため、自分で大量に購入し、知り合いに配ったりしました。実は、このコラムを書こうと思い、当時購入せざるを得なかった「モダンなワイシャツ」を着て、出勤しました。首回りのきつさに、その年月が感じられます。

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一 強制執行は専門的すぎる
 
1 強制執行を当コラムで取り上げることにしたきっかけを説明します。
      この二か月強、次のコラムのテーマ探しのため、時間を削って経済小説といわれるものを30冊程度読みました。
ひどい小説もありました。割合有名な小説なのに「破産の申立てを法務局にする」などと書かれると、いくら迫力のある文体であっても呆れて読めなくなります。内容が良いだけに残念です。
経済小説を読みまくって分かったことがあります。題材になりやすい強制執行に関係する部分については、実は弱いのです。執行実務をぼかしたり、ネグレクトした結果、迫力がなくなったものが多いのです。つまり執行の世界は、執行官の経験だけでは背景等根本的な事実については把握できず、逆に生半可な弁護士経験では執行の専門性、細かい事実関係が書けないのです。
その点、高任和夫の初期の作品「商社審査部25時」(講談社文庫古くてごめん、2005年発刊です)は、複雑な動産売買先取特権が実務に即して見事に描かれています。
次回に紹介し、私の経験と比較しましょう。
 
2 先月末、強制執行について書いた原稿をある出版社に出しました。
法律専門の出版社ですが、数時間も経たないうちに編集長から「玉稿を拝受しました」とのメールをいただき褒めまくられました。思わず広辞苑を引っ張り出して「玉稿」について引きました。言葉として存在するのですね。意味として「他人の草稿の尊敬語」とあるではありませんか。角川類語新辞典では「立派な原稿の意」と書かれております。編集長からは、直接お褒めの言葉もいただきました。気分が乗ったついでです。同じことは書きせんが、コラムは強制執行で決まりです。
 
  担保法改正に際して民事局に呼ばれたこと
 
 当コラムでは、既に私が整理回収機構不動産部の統括顧問であったことは紹介済みです。同機構は別名「RCC」と言われ、破綻した金融機関の整理のために政府により設立されました。破綻金融機関には処理のできない大量の不動産が滞留しておりました。その滞留不動産を正面から処理したのですから、当時言われた「占有屋」の方々からは、私たち不動産部は相当恨まれたと思います。
毎日、強制執行の連続でした。当時日本で行われる強制執行の2割は同機構において実行されていると聞かされ、「えっ、全国と言っても、そんなに執行少ないの」と逆に驚いたものです。
 
2 私は、平成15年担保法制改正に関し具体案が出そろった頃、法務省民事局から意見を求められ、法務省に出向いたことがあります。最後の諮問だと言われて質問されました。質問の内容は、担保法に関係する民法の部分ではなく、執行関係の細部についての質問でした。今にして思いますと、法改正に直接関与された出向裁判官が、執行の細部に関する実態を理解されたかったのだと思います。
 
3 今回は、法改正の部分について大まかに触れておきますが、次回からは具体的な経験談を書こうかと思っております。
   担保法改正の背景事情であった「占有屋の跋扈」等お知りになりたいのかもしれませんが、それでは経済小説を書いたほうがましです。当コラムでは遠慮させてください。現実に起きた細々とした体験をお知りになりたいだろうと、勝手に想像して書きます。
 
三 平成15年公布の法改正の内容
 
1 改正の視点としては、民法の抵当権部分の改正と、執行制度の改正の二つの場面を区別すると良いと思います。今回の調査で上記解説書が少ないことについては驚いております。つまりこの改正は、あまりにも“専門バカ的な改正”なのでしょうね。しかし強制執行を業とされる方には重要です。
ましてや経済小説を書かれる方には必読になるはずです。
 
2 民法に規定される抵当権の改正からみます。
これまで「占有屋」と言われ、「不動産担保金融業者」と言われる方々が担保権に対する脱法行為として利用した「短期賃貸借」(民法602条に定めた短期賃貸借は抵当権設定登記後に設定登記されたものであっても抵当権者に対抗できる)及び「滌除」(改正前民法378条の規定で、抵当権付不動産を取得した者が、一定の金銭を抵当権者に提供して一方的に抵当権を消滅させるもの)の制度がなくなりました。不動産バブルの崩壊からは遅すぎる改正でした。
民事局に呼ばれて質問された一つに明渡し猶予制度がありました。この制度は短期賃貸借制度の廃止と引き換えにできたもので、正常な賃借人は代金納付後6ヶ月間明渡しを猶予されるというものです。出向裁判官はこの制度の実効性を聞きたかったのだと思われます。借主の実態について種々質問されたことが印象的でした。
こうして挙げていくときりがありません。後に当コラムで触れようと思うものだけをあげておきます。
 
   執行手続関係として当コラムで書こうと思うもののうち、今回の改正点で関係すると推測されるものは、保全処分の要件の緩和、動産競売、財産開示の裁判等でしょうか。
しかしながら裁判所での細かい認定基準等については改正に触れざるを得ない場合もありますのでご容赦ください。
   次回は、早速動産売買先取特権から入ります。


 

 

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一   O.J.シンプソン裁判

1.     刑事事件と民事事件で異なった結論

(1)   アメリカ、ロスアンジェルスやサンフランシスコに行き、O.J.シンプソン裁判を視察しようとしたことは前回話しました。
 この事件を例にして、分かりにくい「無罪推定原則」について説明しましょう。「推定無罪」という本も出版されていますし、同名の映画もあるくらいですが、何だろうなと思われていてはいけません。
 当コラムでも当たり前のように使ってきた言葉ですから。

(2)   OJ.シンプソンは、刑事事件では「世紀の裁判」によって無罪になりました。しかし残念ながら民事裁判では殺人を認定する判決が出て、遺族に対して損害賠償することになりました。
 OJ.シンプソンは刑事事件では弁護団「ドリームチーム」に依頼し、5億円は払ったと言われております。しかし本を出版したりして大分稼ぎ返したそうですが、民事事件では弁護団「ドリームチーム」に支払うお金を倹約し別の弁護士に依頼したと言われております。でも民事事件で8億円以上のお金を支払ったのでは割に合いません。
 二つの結論に違和感をもたれませんか?
 二つの結論の違いは、無罪推定原則があるからと言ってよいでしょう。もっとも法理論ではなく、刑事裁判では有色人の陪審員で占められていたこと、民事では白人の陪審員が多かったことの差異であるなどという論評もありますが。

2.     「推定無罪」とは

(1)   「推定無罪」とは、有罪と認定されるまでは無罪と推定されるという近代法の原則を言うとされています。刑事訴訟法第336条「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言い渡しをしなければならない」という条文も同様の趣旨であります。
 つまり有罪になる事実の提示は、国つまり検察官に責任があるという原則なのです。証明責任と言ってもよいでしょうが、検察官に「合理的疑いを超える程度まで証明する責任がある」ということを意味します。難しい議論をするつもりはありません。とにかく法律家は公知の事実とか、事実上推定される事実とか種々論じますが、最終的には「常識」でしかありません。前のコラムでも紹介しましたが、司法修習生の皆さんが信頼しえない結論を出すこともあるのです。皆さん、既に「国民の常識」に自信をもっておられますよね?

(2)   推定無罪は「疑わしいときは被告人の利益に」とも言い換えます。OJ.シンプソンは、刑事事件では疑問があっても、経験則に照らして「殺したね」とまで言えなかったので無罪になったのです。引き換え、民事裁判では双方が出してきた証拠、つまりその事実からOJ.シンプソンに分が悪いねという比較のうえでの相対評価なのです。つまり損害賠償を請求しているご遺族の提出された事実のほうに真実性があると陪審員が判断したということです。噛み砕き過ぎていると感じられる方は法律の入門書を読んでください。
 私のコラムでは、裁判における判断は専門教育を受けていなくとも出来るという最良の証明材料として、OJ.シンプソン事件を引き合いに出して説明してみました。

(3)   蛇足かもしれませんが、私は、優秀な弁護士とは、その証拠即ちその事実を見つけ出してくる「粘り」にあると以前から本コラムで書いております。事実認定能力などという特殊な能力を匂わせる弁護士を信用してはなりません。判断に資する材料・証拠を「種々の工夫をして集め」、それを相手方・裁判所に提出し、しかもそれを「分かるように主張することができる」という事実が大切なのです。
 今回で裁判員制度のコラムは終わりますが、「国民の常識は司法に適さない」と言われる元裁判官の方々の論評に呆れる私の気持ちを理解していただけるでしょうか?「素人のラフジャッジ」などという法律家は鼻持ちならぬエリート意識の固まりだと思います。

二   国民の司法参加こそ重要

国民の司法参加が不要という批判は、結論から言ってしまいますが、全て「お上」に任せてしまえばいいという流れになります。
 現在の裁判所の実態を暴露する本の一冊でもお読みになれば、とても許されない結論になるでしょう。日本も随分民主主義が育ってきました。しかし「絶望の裁判所」から読みとれることは民主国家であるなどと胸を張って言えない裁判所が現実だということなのです。
 上記事実は、行政に「えこひいき」をしているとしか理解しえない行政訴訟の認容率からでも直ちに分かることです。日弁連が出しております「自由と正義」(本年8月号)によっても「実質的な勝訴率となると(国から発表されている)グラフ2の数値(2012年は9.8%だそうです)から、さらに一段階低く数%になると推測される」(24頁)と書いております。行政訴訟を考えますと瀬木元裁判官が言われる「絶望の裁判所」がひしひしと伝わってくるのです。

三 まとめ

 司法権も権力行使の一部であるという事実は争いようがないのですから、やはり国民の監視下にあらねばなりません。行政権や立法権だけでなく、司法権の独占も恐ろしいのです。
 このように考えませんと、言いたいことも言えない戦前の国家制度に戻ることまで危惧されるのです。
 立派な裁判官の方には「我々は、あなたを支えるために一緒になって裁判を行います。安心してください」と伝えましょう。

 

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一 裁判員裁判における国民の負担とは
 
 国民の負担が過大という批判は制度論なのか? 
(1) 次に、制度論に関係する批判として「国民の負担が大きい、人権侵害だ」という論点です。
この論点に関しては、既に最高裁判決(平成231116日大法廷判決)も出ておりますが、残念ながら、今後も繰り返し訴訟等で蒸し返されるものと思われます。
そもそも上記論点については、現在裁判員にかかる負担内容やその程度を検討することにより克服できるはずだと既に当コラムで書いております。しかし、上記主張をされる方は、残念ながら弁護士にもおられます。したがって、今回上記論点を再吟味してみましょう。
国民の司法参加を理念とする限り、避けて通れないジレンマですが、結論から言いますなら、現時点では、負担軽減の工夫をすることによって弊害を減らす方向で十分であると考えられます。最高裁判決にまで触れませんが、それで十分納得いただけると思います。
 
(2)  各国の陪審裁判における「国民の負担」を見て回りましたが本当にすごいものもあります。負担などと言う言葉の埒外でした。
一例を挙げましょう。「世紀の裁判」といわれる「O.J.シンプソン裁判」を実際に見るため、ロスアンジェルスにとびました。無罪評決の日から丁度1週間遅れました。行く前から分かっていたことですが、日本と全く違い、裁判公開法廷は全て専門テレビ局のブラウン管を通して世界中で見られました。しかし負け惜しみでなく、弁護団「ドリームチーム」の驚くべき話等を聞けたことは、その後の自らの刑事裁判でも役に立ったと思っております。
「世紀の裁判」では、陪審員が選任されたのは1994117日、陪審員が世間から隔離されたのは翌年の111日からです。隔離は知人、新聞或いはテレビ等に影響されないようにするものですが、陪審員の評決が下されるのは約10カ月後の102日なのです。陪審員で解任された者は10名にも及び、陪審員は長期間ホテル住まいまで強制されました。これも民主主義だというと怒られるかもしれませんが、これほどでなくとも「国民の負担」は大変なのです。
 
(3)  以前、コラムで「国民の義務」だと書いたことについては反省しております。これは国民の権利行使の側面から論じるべき話でした。
心配になった理由ですが、裁判員になることも「国民の義務」と説明しますと、兵役の義務(徴兵制)や憲法改正にまで議論が発展しそうです。義務論では安倍総理(石破さんか?)に利用されそうで嫌なのです。国民主権者として権利行使の側面から論じましょう。
 
2 死刑判決の評議は負担か
 (1)   本年519日、日本経済新聞は「裁判制度 揺れる死刑」と題して裁判員制度が始まって5年、これまでの死刑判決は21件があり、高裁が死刑判決を破棄したものは3件であると報じています。
 
(2)   早速「袴田事件を裁いた男」、副題として「無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の46年」と付けられた本を読みました(朝日文庫新刊)。でも元判事の苦悩は分かりませんでした。元判事は、死刑判決でなくても「転落」されていたのではないでしょうか。「転落」は他に原因があるようにしか読めません。
 
(3)  我々隣人が、死刑判決も必要だと認めるなら(法律があるなら)、誰かが死刑だと言い渡さないといけません。しかし死刑判決を言い渡すことは自分の主義・信条に反するから、拒否すると宣言されるなら、それもありでしょう。その方に不利益が発生するのかどうかは別にして個人の自由です(不利益を負わせない工夫は別の論点)。しかし憲法違反という批判には法治主義からは何処にも論理性が見出されません。しかしそれでも主張される方は、死刑廃止論を主張されるべきです。この論者の弁護士が死刑廃止に熱心だとは聞きませんし、証拠の見せ方の工夫等も提案されておりません。変です。
 
二 その他の問題点

1 その他の批判としては、事件の問題点が表面化されない仕組みになっていること(特に公判前整理手続)、裁判員が量刑に関与すること、裁判員に対する種々の負担(守秘義務等)等多々あります。これらは現行制度の修正として論じることが可能です。裁判官の説示は重要ですし、裁判の仕組みを知ってもらう体制づくりも重要です。私は高等学校に出前で裁判員制度を説明するため回ったこともあります。

2 各国の司法制度を見てきましたが、いずこの国においても幾つもの問題点が指摘されていました。全て満足などと言う制度はそもそも存在するはずがないのです。臨機応変の対応がなされるのは当然のことであり、その工夫が必要なことは「国民の常識」です。

3 前項にて述べました工夫ですが、司法制度改革推進本部時代に裁判員制度を中心になって提言された平良木登規男先生(ドイツ視察でご一緒しました)、四宮啓先生(O.J.シンプソン裁判を視察に行った際、当時カリフォルニァ大学バークレー校にて陪審裁判研究のために留学されていてお世話になりました)あたりに再度論陣を張っていただき、自ら提言されたことの総括をしていただきたいと思います。

4 逃げている訳ではありません。お二人の先生と著名な佐藤博史弁護士、森谷和馬弁護士と私が、東大総長であった平野龍一先生の研究室に呼ばれ、6名で新たな裁判制度を議論した日のことを思い出します。

「国民の負担論」はそれほど世間の納得を得ておりませんので、お二人に期待して前記事項の工夫をお願いすることで十分でしょう。  

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一 普通の人が裁判できるのか?
 
1 裁判員制度に対する根本の批判
(1)  種々議論がなされる今日、裁判員裁判を論じることは本当に難しい。
先ず裁判員裁判制度の批判の内容を整理する必要があります。制度として認められないという根本的批判と、現行制度の見直しで問題点を克服できる批判とに区分する必要があります。
(2)  制度として認められないという(民主主義の根幹を前提にする)批判については多少触れてきましたが、その詳細を検討しましょう。
 その一つが「裁判という法的判断は国民の常識でなしえない、司法の判断は国民の常識に馴染まない」という論点です。「国民の常識」と言われても漠然としていて意味不明です。しかし上記主張をされる方は元裁判官を始めとして意外に目につきます。司法権としての機能から法制度の在り方を論じられているのでしょう。
 
2 「法律の素人」でも有罪・無罪の判断はできる
 「国民の常識」は駄目だと言われているのですから、多分「裁判は専門教育を受けた者でないとできない」と言われているのでしょうね。
裁判官、別に弁護士でも同じですが、彼らに特別な能力があると認定されている訳ではありません。法律を熱心に勉強してきただけです。そもそも、被疑者が有罪か?無罪か?については(これを事実認定と言い、大仰に「事実認定能力」という人もいます)、特別な能力が要求される根拠はないのです。法廷に出される事実つまり証拠から考え、常識的に言って「犯罪をやっているのかどうか」の判断をするだけです。事実認定は経験則即ち常識です。特別教育など不要であり、常識を前提にし、示された事実から「当該犯罪をやったかどうか」を判断するものです。上記論者(元裁判官・弁護士等法曹以外に本論者はいないはず)は、常識以外の何か特殊能力を持っておいでなのですか?
 
 
二 「国民の常識」に関する私の経験
 
 旧陪審裁判の経験者の回答
 以前のコラムで「陪審裁判(旧陪審の証言と今後の課題)」という本を紹介しましたね。この本の中で旧陪審に関与された方々にアンケートを取った回答結果が記載(59頁)されております。

「陪審員の事実認定能力については、45件の回答中、『職業裁判官に比べて優れている』及び『遜色なし』とする回答が21件もあり、『職業裁判官に比べて劣っている』との回答(8件)を大きく上回っている」との結果が報告されております。

上記アンケートに応じられた方は元裁判官の方が圧倒的に多いのですが、上記8名の方に「劣っている」根拠を聞かねばなりません。実は、私も昔、重いテープレコーダーを持って旧陪審の裁判体験を聞きまわった経験があります。それ程多数の方からお聞きした訳ではありませんが、陪審員の「常識」を疑う人はおられませんでした。むしろ事前にきちんとした「裁判官説示」がなされるなら、事実認定に問題はないと述べておられました。つまり元裁判官の方がどのような「説示」をされたのか?お聞きしたい。説示こそ重要なのです。裁判官は、事前に裁判の手順や進行だけでなく、裁判に関する判断の仕方、つまり常識による判断だということを説明します。説示によって「常識」で判断できることを教えられるのです。
 
2 模擬陪審裁判で示された「国民の常識」
(1)   私は、国民の司法参加を実現するべく幾度も模擬陪審法廷を開いております。銀座ガスホールで行った時は私が被告人役を演じました。私の事務所の副所長が中学生でしたが、この模擬陪審法廷を見に来てくれました。被告人役の私が無罪になった際、彼がテレビ局からインタビューされるというハプニングもありました。
 
(2)  模擬陪審裁判の台本作りも幾度かやりました。判断しにくいように証拠に変化を加え、証言も曖昧になるよう工夫を加えました。有罪無罪が判断しにくいように工夫をしたのです。ある時、事実認定力を実験するためと称し、陪審員団を3種類作ったこともあります。つまり?元裁判官で現在弁護士をされているグループ、?市民と言われる一般の方のグループ、?司法修習生のグループの三グループです。
 
(3)  この三グループは別個に審理し、全く異なった判断をしました。
裁判官を経験された弁護士グループは文字通り有罪無罪半ばという結論(これも変)で、結局多数決で無罪でした。「市民」と言われる一般の方の陪審員団は争いもなく無罪でした。ところが驚いたことに司法修習生の陪審員団は反対が殆どなく、断定的に有罪なのです。
一般の方々は、説示に従い、無罪推定の原則を厳格に守られたのです。だから当然無罪になりました。司法修習生という、つまり法教育を受けた方の事実認定にこそ問題があったのです。しかし何故司法教育を受けている人たちが、このような判断をされるのでしょうか?事実認定に際して法律の知識が邪魔をするとしか言いようがありません。本当に不思議ですが、幾度か同じ経験をしました。その一つが、季刊刑事弁護51996125日号10頁に紹介されております。
以上により明らかなことは、寧ろ法の知識に邪魔をされない一般人のほうが、法律を一生の仕事としようと決意をされた司法修習生より優秀だと言う結論になります。上記の本では「裁判官の目」と「市民の目」では同じ事実も「違って見える」と論評していますが、さらに職業人の判断も信用ならないと言ってほしいものです。

 

  「国民の常識」という論点が如何に漠然としたものであり、且つ根拠も示しえない批判かということが明瞭に分かります。

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 一 「陪審教徒」と「参審主義者」の歴史的和解の旅

1 第一東京弁護士会会報(平成98月号)

(1)     上記会報において、私は「デンマーク裁判所視察の成果」の題名のもと「陪審裁判制度論者と参審裁判制度論者の邂逅」と副題をつけて、デンマーク裁判制度を視察した一文を寄せております。同国では、両制度が矛盾なく円滑に運用されており、これまでわが国ではその詳細がつまびらかにされていなかった制度だったことから、参加者の皆が驚いた経験をしました。少し長くなりますが紹介しましょう。

(2)     「デンマークの裁判は、陪審裁判と参審裁判の両制度を採用し、同時に職業裁判官のみの裁判をも併用する特異な司法制度をとっております。誤解を恐れず率直に申し上げますと、あまり多くを期待しないで出かけた私には、大変学ぶところの多い視察でした。
 これまでわが国の刑事裁判において、国民の司法参加を考える場合、陪審裁判が採用されるべきか参審裁判が採用されるべきか、まるで二者択一の如くに論じてきた我々にとって、まさしく画期的な旅行ではなかったかと推察しております。
 即ち各制度がうまく運用されているデンマークの実態に触れ、これまで陪審・参審制度をそれぞれの立場から、他方を排他的に主張してきた我々のなかで、両制度の主張が融合されるかもしれないという予想がたった画期的な旅行でありました。
 具体的に申し上げますと、国民の司法参加を積極的に実現させようと考える弁護士グループの中には、私が冗談に「陪審教徒」とお呼びする友人の方々、もう一方の弁護士グループで「参審主義者」とお呼びする皆様の歴史的な和解・融和がなされるのではないかと期待しうる程の成果をあげたのであります。」

(3)     詳細をお知りになりたければ、当時の視察記録として「デンマークの陪審制・参審制 なぜ併存しているのか」(日本弁護士連合会司法改革推進センター及び東京三弁護士会陪審制度委員会編 現代人文社)をお読みいただければいいのですが、本書は250頁に及ぶ力作になりますので纏めとしては、前項私の視察報告書が適当でしょう。
 「私たちは、これまで陪審・参審制の双方を勉強の課題として各国を巡ってきましたが、我々の間では双方の制度が互いに相容れない制度として論じられてきた傾向がありました。
 特に、国民の司法参加としては参審制が理想の形ではないかと信じる私の立場に対して、保守反動のごとき批判がなされることもございました。陪審制主張の論者の中には、時にしてこのような性癖の方もおられ、私なりの反論もしてまいりましたが、最近は面倒臭くなってきたというのが正直な感想であります。即ち本視察旅行が色あせ始めていたのです。
 私個人としては、司法制度に関する国民の司法参加について他の制度目的をも考慮にいれ、多少でも切り口を変えれば、陪審制のみが至上の制度でないということは明白だと考えております。

  陪審裁判が至上の制度か?

(1)     陪審裁判は「隣人による裁判」であります。アメリカのように多種の民族が共存するモザイク国家では、他人に対する自由の制限・束縛は、裁判という仕組みを通し、隣人の認定によってのみなすことができるのです。結論から言うなら、自由であるべき他者を束縛するためには、隣人による裁判と言う仕組みによってのみしか認められないというのが民主主義なのです。自由はその限度でのみ制限されるという納得に基づいて隣人と共存し、誰もが生存できるというのが人類の知恵であります。これが法として整理され、法治主義にまで論理が発展するのです。
 であるなら多数に溶け込んでいる人々は、シンパシーを共有されることが可能な「隣人と言う裁判官」によって裁判手続を受けることが可能です。しかし隣人と縁の少ない人、即ち、何らかが隣人と異なる少数者は、隣人と言う裁判官のシンパシーを享受することができません。「冤罪」はこのような理由から発生することが多いのです。

(2)     日本の文化と比較しますと、アメリカの権力に対する国民監視の認識はやはり圧倒的に進んでおります。日本の官僚に対する批判を、日本の資料からは明らかにしえず、アメリカの公文書を検証して、逆にその事実を示しえた経験からも明白な事実です。
 アメリカでは証拠を保存しております。DNA鑑定の技術が進歩し、保存されていた証拠を再検証したところ(日本で出来ますか?)服役している人々の中から、何と冤罪が311件にも上るという報告もあるくらいです。それを題材にした小説もありますが、散漫になるので紹介しません。
 冤罪の多くが隣人と異なる少数者だと言えば驚かれませんか。皮膚の色が異なる人、或いは共産主義者のレッテルを張られた方々がその中心になるのです。陪審裁判の弊害の一つがここにあります。

(3)     ここで絶対に紹介しなければならない制度がデンマークの陪審制ダブル・ギャランティの制度なのです。デンマークでは冤罪の危険を回避するため、二重の保障(ダブル・ギャランティ)と言う制度を取り入れております。陪審員が有罪とした場合に、職業裁判官が事実に基づき証拠が不十分と判断したときは無罪とすることができるのです。逆の陪審員の無罪判決には裁判官も拘束されるというのですから、推定無罪の原則が貫徹され、冤罪の防止に寄与します。
 我々の視察時、偶然陪審有罪評決を裁判官が破棄するというデンマークで三度目の場面に遭遇したのです。翌日のデンマークの新聞もすごかったが、我々の興奮度をお伝えできないのが残念です。 

 

二 「自分の生き方は自分が決める」と言う方は少数者?

皮膚の色が違うという方は日本では少ないが、しかし時の権力者に抑圧される考え方をするかもしれないという皆さん!(それを宗教や思想と言うこともできる)、弾圧する側と同じ思考パターンの多数者に判断を委ねる「隣人の裁判」を受けたいでしょうか?
 私は生粋の日本人ですが「自分の生き方は自分が決める」という日本の文化人が生き様とする家庭のもとで育ちました。他人と違うということは気にはなりますが、生き方までは変えたくありません。シンパシーのない隣人に裁判されるくらいなら「事実のみを証拠とし、その事実のみから結論を推測し、その推測の過程は法律のみに基づいて裁判」をしてほしいのです。もちろん自己の責任は引き受けるつもりですが・・。
 一方、判決と言う結果は、国という権力により担保されています。ですから裁判といえども、国民の批判にさらされる必要があります。

陪審裁判について、私のような懸念を漏らされる日本の弁護士は残念ながら存じ上げません。

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一 裁判員裁判制度を論じることは政治的な題材か?
 
1 政治的な題材は嫌い
(1)  前回紹介した小説「法服の王国(上、下)」では実名で多くの方が登場します。代議士として実名で登場されているご子息に、大変お世話になりました。この方からは、私の司法試験に対する姿勢を根本において矯正していただきました。この方なくして、私は実務家としての在り方を意識できなかったでしょう。
昔の私は、当時の学生運動の華やかな時代に即応して、十分に政治に埋没しておりました。大学に行かなくなってからも、卒業したのかどうか分からないモラトリアム人生でした。東京都美濃部知事選挙当時、受験生だった友人の下宿先で答案の書き方の話をしていながら、「こんなこと、やっていていいのか」と無性に怒りを感じたことが昨日のようです。学生時代に引きずられた毎日でした。確かに答案練習会には出ましたし、答案を議論する仲間もできてきましたが、一方徹夜麻雀や労働組合関係の支援もしておりました。30代直前の列島改造ブームの頃には、丁度サラリーマンでしたから、石油ショックで経済が沈没するまで、「下品ないい思い」も経験しました。
 
 (2)  法律を教えてもらった「この方」との出会いですが、30歳の結婚を契機に、真面目に司法試験を受験するしかなくなった私が、当時有名な中村法律研究所に合格し、始めて集団で司法試験の勉強を始めた最初の頃です。研究室には、当初背広で通って笑われました。
入室すぐに論文指導があって、その方から「あなたのような学生運動の延長上で書いた論文では絶対に受からない。政治的な思考が出ています」と言われ、細かい指導を受けました。ビックリしました。もっとも「何故活動家だって言えるの?」とは思いました・・。この方は後に山口県から社会党の代議士になられたくらいなので、きっと同じ過去をもっておられたのでしょうね。今でも当時の指導の詳細を覚えております。
 
(3) それからは理念ではなく実務家たらんと努力しました。法の枠から出てはいけないと自戒しました。何時の間にか政治的な思考と実務家の区別も分かり始めてきたように思います。
意識したことは「事実(裁判では証拠)から立論し、その事実から推論はするが、事実から飛躍はしない。その推論の過程は法律による」というものです。このような区別を意識する必要がなく容易に司法試験と言う暗記勉強のできる人も私の周りにはたくさんおられました。このような秀才、言葉を換えれば器用な方は、頭はいいのでしょうが私は好きではありません。詳しくは書きたくありません。つまり、私は「法服の王国」の著者のようにはなれません。
こんな経験から、本コラムでは政治的な話は書きたくないのです。
 
2  裁判員制度を論じることは政治的でしょうか?
司法とはいえ、制度なのですから、「あるべき論」から考えると、やはり政治的議論だと判断しております。しかし許されるという立場から見ますと、司法制度の設計なのですから、司法に携わる我々実務家が議論に参加することには意味がある、否、義務があるはずです。
誰も関心を示さなかった当時、世界の司法制度を見て廻り、且つ模擬陪審裁判に没頭した昔の自分を振り返りますと、やはり実務にのみ埋没できなかった自分は「三つ子の魂百まで」だなと実感します。
当事務所副所長は、このコラムに対して言いたいことはあるでしょうが、陪審裁判と参審裁判の両方を取り入れているデンマークの裁判制度を説明するなら許してもらえるでしょう。今から考えますと、このデンマーク視察報告書なくして現在の裁判員裁判制度は生まれなかったのではないでしょうか。このように推測される事実も後に説明しましょう。
 
二 裁判員制度に対する批判
 
 種々の批判
 批判の内容を調べますと制度の根幹に対する批判は殆んどありません。不思議ですね?
多くの批判は制度論と言うより、国民の負担が大きいというような弊害に対する疑問提起が中心です。これは司法制度の在り方に対する批判と言うより、弊害をなくする工夫によって乗り越えられるものです。
もっとも陪審制を提案される方からの批判は、国民の司法参加という理念において共通しており、デンマークの司法制度を見ていただくなら批判になどなりえないのです。諸国の司法制度を共に視察された先生方は、国民の司法参加の態様によって、その国がどの程度の民主主義か分かるとまで感じておられるはずです。
裁判官内情暴露本の一つだと判断されます「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著 講談社現代新書)では、このような趣旨において陪審制の主張をされております。この点において、買って、読んで良かったというのが私の感想です。
 
2 国民の負担が大きいか?   
    民の負担が大きいというような批判は私の体質に合いません。そもそも私は多くの事件を通じて、日本においても自分だけ良ければいいという雰囲気になっていることに危惧を感じております。隣の大国の国民のように、自分さえよければよいという自己中心主義の世界は嫌なのです。
       私は、司法という場を裁判官による独占から排除する制度こそが必要であると信じて世界の裁判制度を調査して廻りました。そしてその経験から、国民の負担が大きいなどと言って甘えることは許されないと思います。これは裁判に関与する各国の参加者も話していたことです。国民の負担は、結局は民主主義の深まりによって論じられることだと思います。その例の一つですが、デンマーク視察に行く前年、当事者主義訴訟構造での参審裁判の実態を見たいと考え、スウェーデンを視察しました。スウェーデンでは、日本では不十分な行政監察制度であるオンブズマン制度が機能しており、参審制度とよくマッチしておりました。
 
3 再度国民の義務論
私は、裁判員になることも「国民の義務」だと考えています。自力救済?のコラム、私の大学時代の憲法答案のような「落ち」になります。しかし、それでも国民の負担として過重だと言われるなら、国民の負担を減らす工夫をされるべきではないでしょうか。素人に量刑を決めさせることが問題だと言われるなら、この論点をクリアする陪審制度を一部取り入れることすら可能なのです。国民の司法参加と言う視点において、陪審制と参審制が対立しない裁判制度であることを、殆どの弁護士は知ろうともしません。
 
4 最後に付加しておきますが、国民の常識が信用できないという批判は根本がおかしい。裁判は法に基づいて行うものであり、恣意に行うものではありません。この批判は、裁判がどういうものかという中学校レベルの教育の問題であり、ひいては常識がないとされる親や友人に唾するものであります。親や友人に常識がないなら、民主主義など語らないでください。

次回(その3)は待望の「デンマーク視察」ですが、この調子ですと、次々回(その4)は「国民の常識」がテーマにならざるを得ませんね。 

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一 「狂った裁判官」と言う本(幻冬舎新書)
 
1 裁判官の内情を描く

(1) 裁判官の実態を明らかにする本が、最近顕著に増加しています。特に裁判官が普通のサラリーマンと変わらず、しかも権力に弱い司法官僚であり、最高裁の司法行政に振り回される内幕を暴露する本が世間受けしているようです。

例えば、少し古いが「裁判官―お眠り私の魂」(朔立木著 光文社文庫)、新しい本では「裁判官が日本を滅ぼす」(門田隆将著 ワック出版)があり、今回問題にする「狂った裁判官」は同系列の本です。
小説ではありますが、実在の裁判官(多くが実名)を登場させる「法服の王国(上、下)」(黒木亮著 産経新聞出版)は面白かった。吹き荒れた東大闘争後、理念を追いかけた裁判官や司法修習生の実際の話、或いは私が弁護士になってからのことも思い出しました。殺人事件で刑事部担当部長として対峙した「当時の有名裁判官」に対する記述には感じ入りました。私の経験と合致したのです。私は、その裁判官が法廷において人として尊敬できない対応をされたことに対して、弁護士としてその指示には従いませんでした。裁判官を批判的内容で登場させながら、実名とは! 著者の度胸に驚きます。

(2) 同じ暴露本のつもりであろう「狂った裁判官」と言う本はカスです。読んで損をしました。「内容がむちゃくちゃ」と批判すると「価値感が違いますからね」という元エリート裁判官からの反論も予想できますので、実務家として失格と言う事実を示します。

168頁「裁判官は、司法試験、法科大学院、司法修習等を経た法律のプロですが、裁判員は法律の素人です。法律の素人が裁判所の構成メンバーとなるのは、日本では初めてです。戦前も戦後も、裁判所は法律のプロである裁判官だけで構成すると決まっています。」
上記の事実は虚偽です。

彼は、多分、心底では自分を勉強家であると思われているでしょうが、わが国で陪審裁判が行われていた事実すら勉強されていない事実に呆れます。わが国陪審法は、大正12年制定、昭和310月に施行、同184月に停止されております。

上記陪審制度は多くの欠陥があったと言われながらも、審理事件総数484件、うち無罪81件と言う結果を生んでいるのです。これらの事実は、多少権威のある本なら記載されている事実ですが、今後、当コラムでは「陪審裁判(旧陪審の証言と今後の課題)」(東京弁護士会編集 ぎょうせい出版)という書籍を参考にして紹介しましょう。
 
 「狂った裁判官」と言う本は矛盾だらけ

(1)  ひどい裁判官が多いという内情暴露はいいでしょう。だから「狂った裁判官」という表題で本を出版されたのでしょうから。

でも何故、現在運用されている裁判員制度を批判されるのでしょうか?「狂った裁判官」だけで裁判をしていいのか本気でお聞きしたい。
172頁「裁判員制度を作った動機として、よく裁判官は常識がないから裁判員を送り込んで常識のある裁判をするのがよいなどと説明されます。そうすると、裁判員制度は、法律はそっちのけにして、常識に基づく裁判をやろうというのでしょうか」(めちゃくちゃな論理)
173頁「結局、裁判員の入った裁判所は、何ら基準がなく、多数決で何でも出てくることになります。裁判の予測など、もちろんできません。めちゃくちゃ裁判の始まりです」
“君!国民にとって「狂った裁判官」が裁判するより、素人のほう がよっぽどましではないのですか?”

(2) 本コラムで、餓鬼みたいな低次元の論争をするつもりはありません。

もっとも彼もまともなことも言っており、それこそが根幹なのです。
175頁「司法とは、単に、裁判をやっていればよいのではなく、立法府や行政府の権限の乱用により侵害された国民の人権を回復するという重要な役割があります。その役割を実行するためには、民意からは一定の距離を保って法令のみに基づいて判断する裁判官が是非とも必要となります」
彼は、まともなことも言っておりながら、彼自ら司法行政に負けたというのです。162 頁「浅生所長のした裁判干渉もまたご多聞に漏れず、誰もいない横浜地裁所長室で 行われました」と言うのです。
“君!司法行政に屈する裁判官の姿とは君なのですか。”
こんな裁判官に国民の権利が守れるでしょうか。そもそも司法の最大の役目は、彼の言うとおり、立法府や行政府による権限の乱用から国民を守るということです。これが民主主義の根幹なのです。
 
二 裁判員裁判の理念
 
    「狂った裁判官」を書かれたエリート元裁判官も指摘されている通り、立法府や行政府の権限の乱用により侵害される国民の権利を守ることこそが司法の独立の根幹なのです。だから素人である国民が参加する司法制度こそ、司法官僚の独裁から解き放なたれる司法制度設計なのです。司法行政にひれ伏す裁判官よりも、自由な立場の国民が司法の場に参加してこそ上記権限の乱用を防止し、それ故に司法の独立が守られます。立派な裁判官もおられますが、その場合でも裁判の運用等の全てを素人即ち国民の目にさらすことによって、裁判官に“狂わない”でもやっていける環境を作る、逆に、裁判官が「国民に守られている」という自意識をもたせることに意味があるのです。

 もっともこれだけが裁判員裁判の趣旨ではありません。暫くは本コラムで、私の経験について書きたいと思います。 

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